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【虎に翼】寅子と優三の結婚の理由・社会的地位は実話?モデルはどうだった?

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NHK朝ドラ「虎に翼」伊藤沙莉さん演じるヒロイン猪爪寅子が仲野太賀さん演じる佐田優三と結婚するのですが理由は社会的地位を得るためなんです!実話なのでしょうか?「虎に翼」で寅子と優三の結婚の理由は実話なのか?モデルの実話からご紹介します。

目次

【虎に翼】寅子と優三の結婚の理由は社会的地位!?驚きのネタバレとは?

以降では寅子と優三の驚きの結婚のネタバレをご紹介します。

寅子が花岡に失恋

1938年、寅子(伊藤沙莉)たちは高等試験に合格し、1年半の修習期間を終えると、正式に弁護士になれます。

この年の試験で筆記試験は合格しましたが、口述試験で不合格となった優三(仲野太賀)。

今後の試験を断念する決意をしました。

1939年春、優三は猪爪家を出て直言(岡部たかし)が社長の会社の工場で、住み込みで働くことにします。

修習期間を終え、正式に裁判官になった花岡(岩田剛典)。二人だけでお祝いをしたいと言われた寅子に、花江(森田望智)とはる(石田ゆり子)は「もしやプロポーズ?」と大喜び。

ですが花岡からは、故郷である佐賀の地方裁判所に赴任することになった、と告げられ、ふたりは握手をして別れました。

1940年10月、修習期間を終えた寅子は晴れて弁護士に!

そんなある日、轟(戸塚純貴)とよね(土居志央梨)と3人で歩いていると、偶然上京していた花岡と再会します。

花岡は可憐な女性を連れていて、婚約者だと紹介しました。

花岡と寅子が結婚すると思っていた方もいると思いますが、なんと結ばれることはありませんでした。

以下の記事では花岡の実在モデルの紹介をしています。

虎に翼花岡悟【岩田剛】のモデルは餓死が死因の衝撃の裁判官・山口良忠?

衝撃を受けた3人。寅子は帰宅するとはるに、お見合い相手を探してほしいと頼みます。

驚くはるに寅子はこう続けました。

「社会的な信頼度、地位を上げる手段として、わたしは結婚したいのです!」

そのころよねと轟は花岡を呼び出し、寅子のことをどう思っているのかと非難しました。

花岡は結婚相手には、どうしても家庭に入ってほしいと望んでいて、やっと弁護士になれた猪爪に、弁護士の道を諦めて嫁に来てほしいと言えなかったことを告白。

轟とよねは憤慨しますが、花岡の決意を知り諦めるしかありませんでした。

優三からプロポーズ!理由は社会的地位!?

そんな寅子の心中を察したはるは、必ずいい人を見つけてくると奔走しますが、26歳になった寅子にそうそうお相手は見つかりません。

そんなとき、直言からこのことを聞いた優三が、寅子にプロポーズしにやってきました!

優三も社会的地位が欲しいと聞き、願ってもないチャンスだと感じた寅子。はると直言の許しを得て、ふたりは婚約します。

弁護士になった寅子。女性ということで依頼人が嫌がり、仕事がなかなかきませんでしたが、いよいよ法廷デビューすることに!

そのころ寅子と優三は結婚し、寅子の部屋で一緒に暮らし始めました。

優三からずっと好きだったと明かされ、寅子は驚き困惑します。

ですが優三は「見返りは求めないし、今まで通りでかまわない」と告げます。

1942年、寅子の仕事は順調になりますが、依頼人に嘘をつかれ落ち込みます。

そんな寅子を心配した優三は「せめて僕の前では肩の荷を降ろして」と慰めました。優しい優三に、寅子は恋に落ちます♪

女の子を出産

しばらくして寅子は妊娠し、猪爪家は喜びに包まれました。

ですが無理がたたり倒れてしまった寅子。自分が働き続けることは、望まれていないと感じ辞表を出します。

1943年10月、寅子は娘を出産。優未と名付けました。

戦争も激しさを増し、ついに優三にも赤紙が。寅子のお手製のお守りを持ち、優三は出征していきます。

 

花岡への失恋もあり、結婚を決意した寅子。ずっと寅子を好きだった優三が、名乗りをあげました。

いわば形だけの契約結婚と思っていた寅子でしたが、優三の優しさに惹かれていき、女の子を出産します。

ですが間もなく優三は出征していきます。

とても切ないストーリーですが、実話はどうだったのでしょうか!

【虎に翼】寅子と優三のモデル三淵嘉子と和田芳夫とは?

三淵嘉子とは

三淵嘉子さん(旧姓武藤嘉子)は1914年、台湾銀行シンガポール支店に勤務していた、武藤貞雄さんの長女としてシンガポールで生まれました。

嘉子さんのご両親は香川県丸亀出身。嘉子さんが2歳のとき、貞雄さんがニューヨーク勤務となり、母親のノブさんは嘉子さんと長男を連れ、実家の丸亀で暮らし始めます。

1920年、貞雄さんが東京勤務になり、東京に転居。嘉子さんは4人の弟たちから慕われる、快活な少女です。元気すぎて、弟たちからは怖がられていた・・・という噂もあります(;^^)

女学校でも人気者になり、ダンスが得意な嘉子さんはアイドル的存在に♪

1935年に明治大学法学部に編入し、1938年に高等文官試験に、女性として初めて合格。このときの女性の合格者は3名でした。

一緒に合格した中田正子さん、久米愛さんとともに「女性弁護士誕生」と大きく扱われ、多くの女性たちに勇気を与えます。

1年半の修習期間を終え、正式に弁護士としてスタートを切った三淵嘉子さん。このとき嘉子さんは26歳でした。

両親は嘉子さんに結婚を勧め、嘉子さんが選んだのが、武藤家で書生として出入りしていた和田芳夫さん。

1941年にご結婚され、1943年に長男の芳武さんを出産しますが、弟の一郎さんが戦死し、翌年に和田芳夫さんにも赤紙が。

終戦から1年後の1946年、和田芳夫さんの訃報が届きました。

翌年には両親も相次いで死亡。息子と3人の弟たちを抱え、嘉子さんは立ちすくみます。

戦後GHQによる日本国憲法が新たに交付され、これまで女性がなれなかった裁判官を目指す三淵嘉子さん。

1949年に全国に家庭裁判所が設立され、その司令塔となる最高裁家庭局に嘉子さんは配属されました。

その後東京地裁で判事補となり、1952年に名古屋地裁で初の女性判事に就任!

4年後、41歳となった嘉子さんは、裁判官の三淵乾太郎さんと再婚します。

お互いに連れ子のいる再婚で、嘉子さんは乾太郎さんのこどもたちと、衝突しながらも、立派に育て上げました。

東京家裁に異動した嘉子さんは5千人を超える少年少女と向き合い、彼らの更生のために尽力します。

1972年に新潟家裁で、女性初の裁判所長に任命され、自ら少年少女たちの事件を引き受け、家裁の母と呼ばれるようになります。

定年退官まで、若い職員たちからも「お母さん」と呼ばれ慕われていました。

退官後は日本婦人法律家協会の会長を務めるなどしていましたが、1984年に骨肉腫のため69歳でお亡くなりに。

およそ2000人もの参列者が訪れ、別れを偲んだといいます。

生前の嘉子さんの希望により遺骨は、和田芳夫さんと三淵乾太郎のお墓に、それぞれ分骨されました。

和田芳夫とは

当時の嘉子さんの実家、武藤家にはご両親の故郷である、丸亀から上京してきた学生たちが、入れ替わりながら書生として出入りしていたそうです。

そのなかのひとりが和田芳夫さん。生まれ年はわかりませんでした。

和田芳夫さんは貞雄さんの親友のいとこだったそうで、仕事をしながら明治大学夜間部に通っていたそうです。

とても穏やかで優しい性格の好青年。感情豊かで明るい嘉子さんとは、ウマがあったといいます。

結婚後は池袋のアパートで新婚生活を送り、1943年に長男の芳武さんが誕生。

1944年に嘉子さんの弟、一郎さんに召集令状が届き、そのまま戦死します。

和田芳夫さんは体が弱く、肋膜炎の後遺症があったため、出征を見送られていました。

ですが終戦間際に出征が決まり、中国へ派遣されます。

中国に着いてすぐに肋膜炎を再発し、戦闘に参加することなく上海の病院に入院。

そのまま終戦を迎え、帰りの船で病状が悪化。長崎の病院で危篤状態になりました。

危篤の知らせは和田芳夫さんの四国の実家に届けられ、嘉子さんに届くのに時間がかかったそうです。

結局おふたりは再会もできず、和田芳夫さんはこの世を去りました。

和田芳夫さんは苦学生ではありましたが、実家はお屋敷だったそうです。

現在和田芳夫さんの生家をリノベした「家中舎」という旅館があり、想像以上に豪華なお屋敷でした。

経営者の方が「和田邸」というお屋敷を譲り受けた、とコメントされています。

家中舎

そのような家柄も、当時としてはかなりポイントが高かったのではないでしょうか。

【虎に翼】三淵嘉子と和田芳夫の結婚理由は実話?

三淵嘉子と和田芳夫は恋愛結婚だった?

三淵嘉子さんと和田芳夫さんの結婚理由は、社会的地位ではなく、恋愛結婚だったのでは?と思います!

その理由が2つあります。一つ目は三淵嘉子さんは生前、自分の遺骨を再婚相手の三淵乾太郎さんと、和田芳夫さんのお墓に分骨することとしていたからです。

和田芳夫さんとの結婚生活は短いもので、かなりの年月が経っているのに、一緒のお墓に入りたいと願ったのは、きっと愛していたからではないでしょうか。

もうひとつは三淵嘉子さんの性格です。学生時代には武藤という苗字から「ムッシュ」というあだ名がついたほど、とても活発で男前な性格だったそうです。

そんな嘉子さんが、言われるままにお見合い結婚するとは考えにくく、実家で長く一緒に生活していた、優しい和田芳夫さんを気に入っていたのかな?と個人的に想像しました。

結婚の実話

三淵嘉子さんが修習期間を終え、正式に弁護士になられたときは26歳。この時代、女性の適齢期は23歳ころ、と言われていて、両親は嘉子さんに結婚を勧めたそうです。

年齢が26歳ということのほか、当時は戦争により若い男性が、次々と招集されていき、結婚相手を見つけるのはとても困難の時代。

そんなとき嘉子さんが選んだお相手が、一時武藤家に書生として出入りしていた和田芳夫さん。

このとき和田芳夫さんは明治大学夜間部を卒業し、紡績会社で働いていました。

嘉子さんの実弟・武藤輝彦が結婚の経緯についてこう語っておられます。

和田芳夫は嘉子の父・武藤貞雄が中学校時代から仲良くしていた友人の親戚だった。武藤家では郷里・丸亀から上京してきた若者を住まわせて世話していたのだが、彼もその中のひとり。苦学して明治大学夜間部を卒業し、貞雄が関係する会社に就職した後も武藤家に住みつづけていたという。長く同じ屋根の下で暮らしていただけに、ふたりは昔から気心の知れた仲ではある。

引用元 プレジデントオンライン

努力家で優しい和田芳夫さんは、嘉子さんの両親からも気に入られていて、嘉子さんにとっても結婚相手の候補の1人だったのかもしれません。

「虎に翼」の直言やはるのように、嘉子さんに強引に結婚させるような両親ではなかったようで、嘉子さんが自ら選んだお相手ではあったようです。

明るく活発な嘉子さんとは対照的に、寡黙で思慮深く、慎重派で気が弱そうに見られていた和田芳夫さん。

正反対の性格は、お互いに惹かれあう存在だったかもしれませんね。

おふたりは1941年にご結婚され、その1か月後に太平洋戦争が始まります。

1943年に長男の芳武(よしたけ)さんを出産。芳武さんが生まれてすぐ、嘉子さんと和田芳夫さんは、武藤家で同居を始めました。

初めての子育てで、実家だと嘉子さんも安心できたのではないでしょうか。

初孫で貞雄さんやノブさんも、同居を喜ばれたことと思います。

和田芳夫さんも気は遣うでしょうが、長年暮らしてきた武藤家。居心地は悪くなかったのではないでしょうか。

1944年6月に嘉子さんの弟、一郎さんと和田芳夫さんに召集令状が届きます。

和田芳夫さんは肋膜炎で招集が見送られましたが、一郎さんは招集されて戦死しました。

正式に兵役不適格者として認められた和田芳夫さんでしたが、同じように不適格者にも召集令状が届き始めます。

1945年1月に、和田芳夫さんにも召集令状が届き、教練を受けることになりました。

3月に東京大空襲により10万人を超す死者がでます。

嘉子さんは芳武さんを連れて、福島に疎開し、ここで終戦を迎えました。

1946年、戦地で発病していた和田芳夫さんは、帰国後に長崎の陸軍病院でお亡くなりになり、再会することはできませんでした。

ということで、朝ドラ「虎に翼」で寅子と優三の結婚理由は社会的地位を得るためでしたが、実話は恋愛結婚もしくはそれに近いお見合い結婚っだたのでは?と個人的に思いました。

たった4年の結婚生活でしたが、人生の終りに同じお墓で眠りたいと思われた三淵嘉子さん。

再婚相手だった三淵乾太郎さんと同じように、和田芳夫さんのこともずっと愛されていたのではないでしょうか。

まとめ

NHK連続テレビ小説「虎に翼」ヒロイン寅子は、猪爪家の書生だった、佐田優三と結婚します。

花岡が婚約していることを知り、両親にお見合いの相手を探してほしいと頼む寅子。

社会的地位を得るため、寅子はそう両親に説明しました。

なかなか相手が見つからず、そんなときに優三がプロポーズにやって来ます。

優三も社会的地位のため、と言いましたが、実際にはずっと寅子が好きだった・・・というふたりの結婚話。

実話では「社会的地位のため」というわけではなさそうでした。

和田芳夫さんは長く武藤家に住んでいて、努力家で真面目な好青年。

武藤家の皆さんから好かれていた人物のようです。

嘉子さんが弁護士として働き始めところ、両親に「結婚してはどうか」といわれ、嘉子さんが選んだのが和田芳夫さんでした。

結婚に関する資料が少ないので、結論は想像になります。

三淵嘉子さんは特に両親から結婚を強要されたわけではなく、ご自身で選んだようなので、和田芳夫さんのことは結婚相手の候補にはされていたのではないでしょうか。

恋愛よりも法律を選んだため婚期を逃し、社会的地位のために結婚した、という理由もあったかもしれません。

ですが三淵嘉子さんは、好きでもない人と結婚する女性ではないと思うので、恋愛結婚だったと思います!

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