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三淵嘉子の家庭裁判所の創設に関わった史実とは?

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NHK朝ドラ「虎に翼」家庭裁判所創設のため寅子(伊藤沙莉)たちの奮闘が描かれますが、モデルの三淵嘉子さんの史実ではどうだったのか?寅子のモデル、三淵嘉子さんが関わった家庭裁判所創設の史実にをご紹介します!

目次

家庭裁判所の史実とは?

家庭裁判所とは

家庭裁判所は大きく分けて、少年犯罪などの少年事件と、離婚などの家事事件のふたつを扱う裁判所です。

離婚が事件?と思うかもしれませんが、ここで使う「事件」とは、裁判所で取り扱う手続きなどのことをいいます。

家庭裁判所では、このようなことが行われています。

・少年事件

未成年の少年が犯罪を犯したときの手続きや、少年の再非行防止や健全育成

・家事事件

離婚や養子縁組、遺産分割、失踪宣告など、家庭内の紛争などを解決するための手続き

・家庭裁判所調査官

裁判所は法律的な判断に重点を置きますが、家庭裁判所は少し違います。

家庭裁判所で扱う事件は、背景にある人間関係や環境など、さまざまな要素を考慮します。

よりよい解決のため、行動科学を専門とする、家庭裁判所調査官が存在。その調査などを基に、裁判官が適正な解決をすることが任務とされました。

引用元 新潟家庭裁判所

家庭裁判所はいつできた?何のため?

家庭裁判所は1949年1月1日に、女性や子どもの権利擁護などを目的に、GHQの示唆により創設。

家庭裁判所創設前は、地方裁判所の支部となる「家事審判所」と、戦前の司法省が管轄していた「少年審判所」の2つが統合され「家庭裁判所」となりました。

少年審査所は行政機関なので、司法手続きができないことや、戦後の混乱次期であり、2つの裁判所を全国に新設するのは難しい、などの理由で「家庭裁判所」が創設されました。

・少年審判所

裁判所の管轄ではなく行政機関であり、少年審判のほか保護や保護観察の役目も持っていました。

ですが少年審判所は東京都大阪しかなく、それ以外の地域の少年犯罪は、放置するか大人と同じ起訴になっていたといいます。

・家事審判所

現在の家庭裁判所の家事部に近いもので、全国にできましたが、多くは地裁の一室を借りた支部という扱いでした。

戦後は戦争の引揚者や生死不明者の相談、相続や養子縁組など、多くの相談者が訪れたといいます。

家庭局

家庭裁判所は全国49か所に置かれ、司令塔となったのが最高裁に新設された「家庭局」。初代局長は、家裁の父と呼ばれ、家庭裁判所設立に多大な貢献をされた宇田川潤四郎さんでした。

宇田川潤四郎さんをモデルとしたのが、滝藤賢一さんが演じる多岐川幸四郎です。詳細はこちらからどうぞ。

多岐川幸四郎のモデルは宇田川潤四郎【虎に翼】家庭裁判所の父で滝藤賢一が演じる!

「虎に翼」猪爪寅子(伊藤沙莉)のモデル、三淵嘉子さんはこの家庭裁判所設立に関わっていました。

三淵嘉子の家庭裁判所の創設に関わった史実とは?

家庭裁判所創設のため、家庭裁判所設立準備委員会規則が、1948年9月にできました。このとき三淵嘉子さんも創設に関わっています。

1949年1月1日に家庭裁判所が創設されたので、準備期間はたったの4ヶ月ほどだったのでしょう。

家庭裁判所創設前

三淵嘉子さんは1947年3月、裁判官採用願を司法省に提出。受け取ったのは石田和外裁判官。

石田和外さんをモデルにしたのが「虎に翼」松山ケンイチさんが演じる桂場等一郎です。詳細はこちらをどうぞ。

虎に翼桂場等一郎【松山ケンイチ】のモデルは帝人事件の判決文の石田和外?

対応に困った石田和外さんは、東京控訴院長の坂野千里さんに相談。

初めての女性裁判官誕生は、新しい最高裁発足後が相応しいだろう、ということで、それまで司法省の民事部で勉強することになります。

戦時中弁護士の仕事から離れていたため、戸惑うことも多かったという三淵嘉子さん。

ですが出来上がった改正案は、女性の地位が向上していて、三淵嘉子さんは喜びを感じるとともに、背筋が伸びる思いだったそうです。

最高裁判所は1947年8月に創設されました。

1948年1月、三淵嘉子さんは最高裁と同時に設置された、民事局に配属されます。

ここで三淵嘉子さんは家事調停などを定めた、家事審判法の制定作業に参加されています。

その後家庭局創設に伴い、初代家庭局局付に就任されました。

この「局付」と呼ばれるポストは、現在では期待の若手がなるポジションで、出世枠となっているそうです。

このように三淵嘉子さんは、家事審判法の制定作業とう形で、家庭裁判所の創設に関わっています。

家庭裁判所創設後

家庭裁判所が1949年1月1日に創設され、家裁は全国49か所に置かれました。

三淵嘉子さんは家裁の司令塔となる、最高裁家庭局の事務官に任命されています。

その後三淵嘉子さんは1949年6月に東京地裁判事補に就任。1952年12月に、名古屋地方裁判所で初の女性判事に任命されました。

三淵嘉子さんについては、こちらをご覧ください。

【虎に翼】猪爪寅子のモデルは誰?三淵嘉子で結婚相手は2人?

三淵嘉子が関わった家庭裁判所はふたりの裁判官が作った?

家庭裁判所の創設のため、三淵嘉子さんが具体的に何をしたのか?ということはわかりませんでしたm(__)m

そのとき三淵嘉子さんは、家事審判法の制定作業に関わっておられたようです。

家庭裁判所の創設を作った、といわれるふたりの裁判官がいます。宇田川潤四郎さんと内藤頼博さんです。

宇田川潤四郎

宇田川潤四郎さんは滝藤賢一さんが演じる多岐川幸四郎のモデルで、内藤頼博さんは、沢村一樹さんが演じているライアンこと、久藤頼安のモデルです。

宇田川潤四郎さんは、戦後満州から帰国し、京都の少年審判所長に就任されます。

そこでたくさんの戦争孤児を目にし、強い衝撃を受けました。

学生に孤児の支援をさせようと思いつき、BBS(Big Brothers and Sisters Movement)を設立。現在も全国に存在する、若い人たちが少年などの支援をするボランティアです。

資金集めのため、芸能人を呼んでチャリティー公演もおこないました。

内藤頼博

内藤頼博さんは子爵の爵位を持つ、殿様判事と呼ばれた裁判官。最高裁創設時に、初代秘書課長に就任されています。

「虎に翼」ではライアンと呼ばれていますが、内藤頼博さんもライハクと呼ばれていたそうです。

内藤頼博さんは1940年にニューヨークで、家庭裁判所の視察をされました。

そこで感銘を受け、帰国後もアメリカの家庭裁判所を高く評価。この時代「非国民」と言われかねない時代です。

ここで見てきた裁判所が、日本の家庭裁判所の理念にも盛り込まれました。

たとえば医務室を設置したり、職業適性検査をしたり、明るく入りやすい建物にした・・・などです。

そんなおふたりが先頭に立ち、三淵嘉子さんらの協力の元、短い期間で家庭裁判所を作り上げたのでした。

史実で家庭裁判所設立準備室の責任者だったのは、市川四郎さんという裁判官です。

「虎に翼」平埜生成さんが演じる汐見圭のモデルと思われます。こちらもご覧ください。

虎に翼汐見圭のモデルは市川四郎?家庭裁判所設立のために奔走!

まとめ

家庭裁判所はGHQの要望により、1949年1月1日に創設。司令塔となる家庭局の初代局長は、宇田川潤四郎さんです。

準備期間はたったの4か月程度。宇田川潤四郎さんと内藤頼博さんという、ふたりの裁判官が先頭に立ち、三淵嘉子さんらとともに作り上げました。

三淵嘉子さんは民事局にて、家事審判法の制定作業をされ、家庭裁判所の創設に関わっておられます。

そんな家庭裁判所創設のためのみなさんの奮闘が、これからNHK連続テレビ小説「虎に翼」で描かれます。

どうぞ楽しみにしていてください!

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